子供達を守るため、原発反対!平和と言論の自由を守るため、憲法改悪反対!
by りんだ
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カテゴリ:★思い出語り( 18 )
友達
高校同期生仲間と京都の旅をする話しが盛り上がりました。
そして、色々検討して、京都の旅といえばやはりこれで、
女三人、JR東海の「そうだ京都、行こう。」で決まりました。
旅は12月初旬で二泊三日。
浅井泰雄くんの個展訪問が一番の目的です。

同行の二人は、高校二年のクラスメートだったMさん、Yさんです。
Mさんとは、三年のクラスも就職先も同じでした。
けれどその当時親しかったわけではなく、
お互いその事はすっかり記憶のかなたで、
去年の同期会後に会った時、
「第一生命に3人就職したのよ。」とMさんが話し、
「エッ!私、第一生命だけど・・・」と、びっくりしました。
42年ぶりの再会ってこういうことなんですね~
MさんとYさんは高校時代も仲良しで、
卒業後も仲良し仲間5人で集まる機会を持ち続けているということでした。其々が違う道を歩み、長い年月を重ねても続くって、
それって凄い!素晴らしいことだと思います。
私も当時の仲間二人と友情を保っているけど、
一緒に食事したり、同期会の幹事したりで会うようになったのは50歳位からです。

主人の転勤で30歳~35歳までは和歌山県新宮市に暮らし、
東京に戻ってからは闘病生活になってしまった私が
なんとかまともな生活が出来るようになった時は40代半ばになってました。
この間、友達と話す事も会うこともなく過ごしました。
そうせざるを得ない状態でした。
でも命を落とすことなく、病を克服し、普通に生活する事が出来るようになり、
多くの友と再会し、今がある私は幸運に違いありません。

高校三年の時に仲の良かったクラスメートのY・Tさんは、20代で亡くなってしまいました。
頭が良くて綺麗で明るくてちょっと悪戯で、私は彼女が大好きでした。
生きていてくれたら今どんなに楽しい付き合いが出来ているかな~と考えてしまいます。
就職先は違ったけど仕事の後に待ち合わせ、一緒に成子坂の洋裁学校に通い、
夏は軽井沢に旅した友でした。
洋裁学校はサボってばかりで、一緒に歌舞伎町の甘い物屋でオシャベリばかりしてました。
そんな二人でしたので、結局学校は一年ほどで退学してしまいました。
私は第一生命も退職し美容学校に通うようになり、
二人の生活は全く違うものになってしまい、
その内、お互いに恋人が出来たりしてますます会う機会はなくなりました。
気にはなりながらも彼女との付き合いは自然と無くなってしまったのでした。

月日が流れ、彼女が結婚したという話しを風の便りで聞いた時、
なんで私に連絡くれなかったの・・・とちょっと寂しい思いをしました。
会ってはいなかったけど、連絡も取り合ってはいなかったけど、
そんなものか・・・
と・・・

結婚した彼女が病で亡くなったのを知ったのも随分後でした。
お葬式にも行け無かった事は今も心の隅に悲しいシコリになっています。
あんなに仲良しだったのに、何時も何時も笑ってばかりの私達だったのに、
なんで辛い時に一緒にいてあげられなかったのかを考えると後悔ばかりでした。
でも、死を前にした彼女をご主人がおぶって旅行したという話を聞いた時、
私達が会わなかった理由が分った気がしたのです。
今も私の心の中に生きている「とこちゃん」は、
二人で過ごした青春の日々のまま、明るい笑顔で私を見つめています。
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by danri | 2008-10-02 14:50 | ★思い出語り
思い出話したいのに
3月31日は中学の同期会でした。
出席者48名。
15歳で卒業して45年。
「まさかこんな年齢になってこうして話をするなんて想像出来なかったよね~!」
そんな会話が飛び交い、思い出話に花を咲かせた楽しい時間でした。

12歳から15歳の中学生時代は多感な時で、
異性に対しても小学生の頃とは違う大人めいた感情を持ちます。
私は「素敵!」と感じてしまうとすぐ好きになってしまう女の子で、
同級生、先輩、先生。次々とやたら好きな人が出来ちゃうのだけど、
心から胸ときめかせた思い出深い特別な人は二人です。
一人は一年先輩のS君。
そして同学年のY君。
今日はY君の思い出を書いてみたいと思います。




Y君は成績もトップクラスで、背が高く色白で目元涼やかな美しい少年でした。
Y君とは同じクラスになったことは無く、話をしたことも無いけど、
二年生になってY君を知ってからは、彼に会える楽しみで学校に通ってるようなものでした。
偶然廊下ですれ違ったりする時は、私の心のトキメキはバレバレだったと思います。
「色に出にけり我が恋は~」で、きっとY君も私の気持ちは感じてたと思います。

三年生になったある日、近所に買い物のため裏通りを歩いていると、
遠くの方にY君とKさんが並んで歩いて来るのが見えました。
二人は幼馴染で、お母さん同士が親しく、仲が良い事は噂で知っていました。
だんだん距離が近づくと、二人の楽しそうな表情が眩しかった。
私はドキドキして、横道を曲がってしまいました。
その時の切ない悲しい気持ち。
惨めでした。
片思いの辛さ、失恋の痛みを知った初めての時でした。

中学を卒業して、Y君は「戸山高校」に進学しました。
私はその他大勢の通うA高校。
両校はわりと近く、戸山高校の学園祭の時遊びに行きました。
Y君に会えるかな~と心ひそかに思ってました。
校庭で友達数人と話してると、ほんとにY君と出会いました。
すると彼は嬉しさイッパイの様子で私に話しかけて来ました。
「来てくれたんだ!」
忘れられない初めての彼の言葉です。
私は嬉しさと驚きで複雑でした。
友達でもないのに、私が来るのを待ってたの?
でも、そんなことある訳ない。
知ってる顔を見たので嬉しかっただけに違いない。
私は戸惑いながらも幸せで、思いっきり微笑みながら「うん!」と答えました。
けれど友達と一緒だったし、それ以上Y君と話すことはありませんでした。
そして彼とはその後会うことも無く、月日は流れました。

二十歳の頃、大久保通りに向かって歩いていると、
Y君が歩いて来るのが見えました。
彼は学生服姿でした。
学帽の彼はとても素敵でした。
早稲田大学の理工学部に通う学生も通る道なので、
「理工なんだ~」と心に思いながらすれ違いました。
私も化粧をした大人になってたので、何となく顔も見られませんでした。
そんな事が何回か続いたある日、
「○○さんでしょ」っとY君が声を掛けてきました。
優しい明るい笑顔でした。
私は微笑んで頷いただけでした。
それからY君と二度と会う事は有りませんでした。
なんであの時立ち止まってちゃんと話さなかったんだろうと、後で何度も思いました。
もしあの時話をしてたら、何かが始まったかもしれないのに。
恋人になれなくても、友達にはなれたかもしれないのにと。

卒業して三十年以上経って、初めて中学の同期会に出席した時、
Y君に会えたら何を話そうかって内心ワクワクでした。
でも、Y君に会う事は出来ませんでした。
彼は大学を卒業して数年後、病気で亡くなったと聞かされました。
「あの時喋らなくてゴメンね。
私、Y君のこと好きだったのよ!」
笑いながら話す夢は消えてしまいました。

私の人生にはどうしようもない後悔が幾つかあるけど、
Y君の事は心の痛みを伴う思い出にしてしまいました。
Y君は思いきって声をかけてくれたんだってこと、
そして立ち止まらない私に何かを諦めたのだとしたら悲しすぎるのです。
あの時、何を話したかったの?と聞きたいのです。
あの時私が何って答えてたら、何をしてたら、
Y君の短い人生に関わることが出来たのでしょう。

私は今でも話しかけてくれた時の笑顔も、声も、
それ以外のY君のこともいっぱい覚えてるのに思い出話し出来ません。
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by danri | 2007-04-01 22:19 | ★思い出語り
戸山ハイツと箱根山
22日。
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友達のKさんと国立病院で会った帰り、
久しぶりに箱根山に登ろうかちょっと迷いました。
入り口の桜並木はまだまだ小さな蕾です。
今はすっかり整備され、子供の遊び場、住民の憩いの場になった地区。
山は知る人ぞ知る桜の名所です。

私が幼い日々よく遊んだのは、山手線沿いの三角山でした。
保善高校の隣にあった小さな山は子供達の冒険の場所でした。
危険な場所がいっぱいで、転げ落ちそうになったことは何度もありました。
実際事故で亡くなった子もいて、小学校の先生から
「遊びに行かないように」と注意されてからはあまり行かなくなりました。
三角山はやがて崩されてしまいました。
ちょっと離れた場所の箱根山は、幼い頃の記憶にはありません。
小学校によって子供達同士の暗黙の縄張りがあったんでしょうね。
私にとっての三角山がそうであったように、
箱根山の近隣に生まれ住み、そこで成長した人には特別な場所だと思います。

私が始めて箱根山に登ったのは小学校高学年になってからだと思います。
夏休みの宿題の写生をしに行きました。
頂上から眺めると、平屋の戸山ハイツの家並みが広々と広がっていました。
近くにこんな素敵な場所があったことに気づき感動しました。
それからは時々山に登りに行きました。
中学、高校の時は友達や先輩が戸山ハイツに住んでいたので、より身近な所になりました。
高校の帰りに登って、新宿の街をボーッと眺めて過ごしていた時もありました。

今では山の木々は鬱蒼とし眺望は遮られ、戸山ハイツも鉄筋団地になり、眺めはすっかり変わってしまったけど、頂上に登る時は懐かしい思いに包まれ心ときめくのです。
桜が咲いたら山に登り、過ぎ去った日々の思い出にひたろうかな。(^-^)

★戸山公園の詳しいサイトを見つけましたので、ジャンプできるようにしますね。
戸山公園
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by danri | 2007-02-25 12:42 | ★思い出語り
長嶋さんと私
(これは、巨人長嶋茂雄終身名誉監督との思い出話です。)

17歳の夏、私は兄に連れられて初めてプロ野球観戦に行きました。
後楽園球場の熱気、長嶋さんに会える喜びで胸は高鳴っていました。
ところが、試合の始まる前に雨が降り出し、雨脚は強くなるばかりでした。
その時、長嶋さんがダックアウトから軽やかに飛び出し、キャッチボールをはじめたのです。
球場はどよめき、大歓声が響き渡りました。
中止になりそうな場面で、せめてものファンサービスをしてくれた長嶋さん。
ほんの短い時だったけど、観客に大きな喜びと感動を与えてくれたのでした。

間もなく雨は土砂降りとなり、試合は中止に。
残念だったけど、長嶋さんを見ることが出来た私は幸せでした。
その時の華麗なフォームは今でもハッキリ思い出すことができます。
長嶋さんが立教大学で活躍し、ジャイアンツに入団して五年目。
大好きな長嶋さんにやっと会えた記念すべき日でした。

               ☆~~~~~~~~~~~~~~☆

それから3年後の12月。
美容学校に通っていた私は、渋谷の東急ビル四階の資生堂美容室で年末のアルバイトをしていました。
何かの用で従業員が使う裏階段を下りていくと、長嶋さんが下から上って来るのが分かりました。
そして長嶋さんが踊り場から二、三段上がって来たところですれ違いました。
その瞬間は静かな夢のような時でした。
私は、「長嶋さん!」と心の中で叫んだけど、何にも言えなかったのです。
会釈すら出来なかったのです。
ただうつむいて、すれ違っただけでした。

長嶋さんは五階にある理容室のお客様でした。
表からだと騒がれるので裏の階段を使っていたのだと思います。
30歳の長嶋さんは真っ白な長袖のポロシャツ姿。
20歳の私は真っ白な美容学校のユニフォームでした。

               ☆~~~~~~~~~~~~~~☆

それから更に長い時が流れ、
長嶋さんの現役引退の日が来ました。

後楽園球場で行われた引退式のテレビ中継を、涙、涙で見ました。
その時の私は第二子出産を控えていて、一月後に生まれたのは男の子。
その子を「茂雄」と名付けようと真剣に考えたのでした。

               ☆~~~~~~~~~~~~~~☆

それから数年経った夏の日。
幼い二人の子供を連れて後楽園プールに遊びに行くところでした。

「あっ、長嶋さんだ!」
主人が叫びました。
球場の近くの広い通りの向こう側を長嶋さんが歩いていました。
その時他にほとんど人通りがありません。
真夏の日差しを受け、長嶋さんだけが光り輝いて見えました。

嬉しくなって見ていると、長嶋さんが球場に近づいた時、男の子二人が駆け寄り、
紙を渡しました。
長嶋さんは立ち止まりサインしてあげていました。
私達は長嶋さんの優しさに感動していました。
そして幸せな思いに包まれながら、その光景をただ見つめていました。

               ☆~~~~~~~~~~~~~~☆

そして、さらにさらに時は流れ・・・

私は恵比寿のWホテルでブライダルスタッフとして働いていました。
二階でエレベーターを降り、少し歩き右に曲がろうとした時、
背の高い男性と鉢合わせしてしまいました。
「失礼いたしました!」
と、頭を下げ、すぐに道をお譲りしました。
ダークスーツの素敵な紳士に胸が高鳴りました。
そして、私の心は小さく叫んでいました。
「長嶋さん!」

私の人生の時々に特別な思い出を作ってくれた長嶋さん、
きっといつか又何処かで出会える日が来ると信じている私です。

                
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by danri | 2007-02-17 23:22 | ★思い出語り
同時多発テロから5年
あの日から5回目の9.11。
グランド・ゼロの追悼式典の模様や特番を見るに付け、あの日の記憶は蘇ります。

9月11日のその夜、
私は9時から放送の「いかりや長介主演のサスペンスドラマ」を見ていました。
やがてニュース速報が入り、
「NY貿易センタービルに旅客機激突。。。」という内容。
その瞬間、「えっ?!?!」って思ったものの、夢の中に居るような錯覚に陥り、
そのままドラマを見続けていました。
でも頭の中で想像したら、
とんでもない事が起きたんだ、ドラマなんか見てる場合じゃないと、一気に覚醒しました。

あわててNHKに切り替えると、そこに映っていたのはツインタワービルの一棟の上層階からモクモク煙のあがっている映像でした。
これは大変な事故だとドキドキしながら見ていると、
画面に一機の飛行機がスーッと現れ、もう一棟のビルに突っ込み爆発しました。
それは一瞬のことなのに、スローモーションのように焼き付いた光景でした。

「エッ!今、もう一機激突したようです!」
いつも冷静なNHKのキャスターも何が起きたのか咄嗟に判断出来無かったと思います。
「これはNYの今の生の映像です!」と、自分自身に言い聞かせるように、
その状況を受け入れるのに必死のコメントを繰り返したのでした。
ただの飛行機事故ではない、これは何かとてつもない事態なんだ!
目撃した世界中の誰もが感じた瞬間だったのでした。

私は15日からイタリア旅行が決まっていたので、心配した長女からは電話がかかり、
「お母さん、見てる!旅行は止めるでしょ!こんな時は中止でしょ!」
対岸の火事じゃない事が胸に迫りました。
そしてやがておきたツインタワーの相次ぐ崩壊は悪夢としか思えませんでした。

アメリカの飛行場は全て閉鎖され、飛行機の発着規制が行われ、
この混乱で、海外旅行中でアメリカから帰国出来なくなったり、
アメリカへ行けない、帰れない人もかなりの数だったと思います。

私は予定通りイタリアに旅立ちましたが,その日の成田空港は静かで、閑散とした感じすらありました。
ただセキュリティーチェクは厳しく、かなり時間がかかりました。
今では当然持ち込み出来ませんが、同行の友人は手荷物の中に入れていた玩具のような小さな便利道具が引っかかり、没収か又は自宅に郵送するよう指示されました。
出発時間も遅れ飛行機も空席が多く、テロの影響の大きさを実感させられたのでした。
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by danri | 2006-09-12 13:44 | ★思い出語り
新大久保物語
新大久保駅からさほど遠くないとあるビル。
そのビルの一階の奥の居酒屋に、仕事帰りの男は、いつものように立ち寄りました。

ビルの入口の隅には、いつも見かけるフォームレス女が小さく丸まっていました。

男は暫し時を過ごし、席を立つ前に料理を一品注文し、
自分が帰った後にそれを彼女にあげて欲しいと頼みました。
施しを与えるのは自分が驕ってるようで気が咎める
女も乞食扱いは怒るかも知れない。
その躊躇は有ったけど、
その夜は寒さが厳しく、その上雨が振っていて、
女の姿はあまりに哀れで、男はそうせずにいられなかったのです。

その時、たまたまそのビルのオーナーがそこに居あわせ、男に話しかけました。
オーナーはビルの裏手にアパートも持っていて、
そのアパートに、かつて住んでいた有る夫婦の話をしてくれたのでした。



幸せだったその夫婦の不幸の始まりは、夫の浮気でした。
夫は若い女に熱を上げ、縋る妻を振り払い、アパートを出ていってしまいました。

「何時も悪いのは男ですね」
と、男はオーナーを見て苦笑いをしました。

どこにでもある修羅場だったのかもしれません。
でも、何処にもいる妻のように、愛想づかしをすることが出来なかったのが、
その女の本当の不幸だったのです。

彼女は夫が必ず戻ると信じ、待ち続けました。

月日は流れ、女の生活は荒み、やがてアパートの支払いもままならなくなりました。
けれど女はその部屋をどうしても出ていこうとはしませんでした。
彼女がそこを動こうとしないのは、
夫が戻ってきた時、そこに自分が居ないことに耐えられないからでした。

オーナーは、彼女の心情、事情を知っていたため、「追い出すことが出来なかった」と語りました。
しかし、彼女が一生その部屋で夫を待ち続けることは出来ないのは当然の成り行きです。
その頃には彼女の精神は普通では無かったのかも知れません。
オーナーは多くを語ろうとはしませんでしたが、男には察しが付いたのでした。

女はアパートを出てからも、その近辺から姿を消すことは有りませんでした。
アパート周辺で寝起きをするまでに身をやつすのに、それほど時間は掛からなかったそうです。

やがて、ボロをまとった異様な姿で、ビルの入口で丸くなり雨風を凌ぐのが当然のようになったのでした。

オーナーは、女の存在がどんなに営業妨害でも
「追い払うことはしないように」
と、ビルの住人、店舗の従業員に言い含めていると語ったのでした。


オーナーの温情と女の哀れな人生を思い、男は目頭が熱くなり、
脳裏には、小さな身体を折り曲げ、大久保通りを歩くその女の姿が浮かんでいました。
道ばたで編み物をしていたのは、演歌の世界そのままに、着ては貰えぬセーターを編み続けているのだろうか。
編み物をすることが、
彼女の幸せだった日々に繋がる唯一の事なのかもしれない。

彼女は、もう自分が何故そうしているのかさえ忘れてしまっているのかもしれないけど、
彼女の心の奥底に或る物は、決して誰にも分かることは無いのだ。

男は家に帰ると、その話を妻に語りながら、思わず言葉を詰まらせたのでした。


(この話は数年前の実話ですが、あえて物語としました。)


◎2012年6月12日
 「徒然語り」から「思い出語り」に移動しました。

 ネットで話題になった「編み物おばさん」はもう新大久保に居ません。
 何も知らない人々が彼女の事を面白おかしく書くことが無いよう願います。
 
 
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by danri | 2006-06-17 05:40 | ★思い出語り
あみものおばさん
mixiに登録して一ヶ月半、自分の興味のあるコミュニティを捜しては訪問し、情報収集や、たまにはコメントを書いて過ごす日が多くなりました。
先日、【大久保・新大久保】というコミュニティを見つけました。
そして昨日、『あみものおばさん』というトピックが賑わってたので、「もしや!」という思いでアクセスしました。
このトピックが作られたのは昨年の4月19日で、作成者のyosiroさんのコメントはこうありました。

「大久保~新大久保界隈にたまにいる、あみものおばさんが気になってしょうがありません。
新大久保改札前で、みずほ銀行前の歩道で、マツキヨ前で、あみものにもえるおばあさん。
いったい何を編んでるのか。
ホームレスなんでしょうか?
どなたかコミュニケートした方とかいらっしゃいませんか?」

一年二ヶ月ほどが経過した昨日までに、68の書き込みが有りました。
私はその全てを一気に読みました。
「新大久保のホームで見ました」
「新宿駅構内で見ました」
などの目撃情報が多い中に、
「この寒さ、大丈夫でしょうか?」
「こんどカイロをあげたいです」
「気の毒で見るのが辛いです」
等の言葉もありました。
私は読みながら突き上げてくる思いを押さえられませんでした。

私は新大久保駅から徒歩7分ほどの地に生まれ育ちました。
そして今もそこに住んでいます。
もうすぐ還暦の私ですが、30歳から50歳までの二十年間は大久保を離れていました。
でも実家はそのままですので、たまには帰ることが有りましたが、
大久保を離れていたこの間の事は良く分かりません。
でも、当時「あみものおばさん」は存在していなかったのではないかと思います。

彼女はかなりのお婆さんに見えます。
その姿から、勝手に私より老人と思っていますが、
もしかしたら私と同じくらいかも知れないし、私よりもっと若いのかも知れません。
ただ想像できることは、私が生きてきたように、彼女も女の人生を生きてきたと言うことです。


実家を新築し、私が再び大久保に住み始めたのは九年前です。
大久保通りで始めて彼女を見かけたのは何時だったのか、はっきり覚えていません。
多分そのすぐ後だったような気がしますが、
もっと以前から彼女は歩いていたかも知れません。


殆ど直角に曲がった腰。
小さな身体は今にも地面を転がりそうでした。
持った袋は膨らんで重そうでした。
初めの頃、時々出会うその老女が気の毒で、
私は荷物を持ってあげようかと一瞬思ったのです。
でも彼女の足取りは速く、つんのめりそうに一目散に歩いているのでした。

私がのんびり買い物していると、戻ってくる彼女と遭遇することもシバシバでした。
ただひたすら、大久保道りを行ったり来たりしているようでした。
着衣は薄汚れ、持った袋の中に、はみ出し落ちそうな毛糸が見えました。
でも今思えば、その時の彼女はまだ小綺麗だったのです。
そして私には元気そうに見えました。

数年が経ち、そんな彼女も、過酷な生活で身体を悪くしたのか、年をとったせいか、
次第に以前のような快活な歩みは無くなりました。
着衣は限りなく汚れ、それでいて荷物は増え、それを引き吊りながらノロノロと歩いています。
日中も道ばたで寝ていることも多くなりました。

数年前の雪の降り積もった夜、
大久保通りから少し入った路地の専門学校の玄関前で、彼女は丸くなっていました。
私は、ハッとして立ち止まりました。
彼女に何かしてあげることがあるだろうか・・・
胸に迫る物が有りました。
けれど、暗い気持ちのままそその場を通り過ぎてしまいました。

結局は何時もただ傍観しているだけの私だったのです。
彼女の居たその場所は、一時期彼女の塒(ねぐら)のような場所でした。
けれどある日、利用できないよう、柵が作られてしまいました。
確かに持ち主には迷惑でしょう。
いつの間にか其処は小便臭も漂うようになっていたのだから。
彼女は今何処を塒(ねぐら)にしているのでしょうか。

私は、彼女の人生の何も知ることのない若者達が、その姿の異様さからネット上で「あみものおばさん」と呼んで話題にしていることにショックを受けました。
そしてその気持ちのすぐ後で、その呼び名に温かさを感じ少しほっとしました。
それと同時に、優しい眼差しで彼女を見ている、見守っている若者も多いことを知りました。

東京の大歓楽街の新宿歌舞伎町、その隣町の大久保の、彼女は象徴的な存在なのかも知れません。
好奇の目で見る人々、汚いと毛嫌いする人々。
でも彼女の姿は、もしかしたら自分自身の写し鏡かも知れません。


◎2012年6月12日、「徒然語り」から「思い出語り」に移動しました。◎
  当時は現在のような大勢の人がヒシメク韓ドラ観光地ではなく、静かな大久保通りでした。
  そして、話題の新大久保になる前に編み物おばさんの姿は消えました。
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by danri | 2006-06-16 23:39 | ★思い出語り
誕生
今日はまーくんの3歳の誕生日です。
生まれたその日の思い出話です。


ママは流産の危機があって出産の年の1月中旬から入院でその日を迎えていました。
兎に角安静にしなくてはいけなかったのです。

その時、私は分娩室の廊下をウロウロしていました。
やがて、元気な産声が聞こえました。
そして、生まれて間もないまーくんを抱くことが出来ました。
この世に生を受け30分くらいしかたってないまーくんは、小さくてたよりない赤ちゃんでした。

あの時から、まーくんのお陰で幸せをいっぱいもらった三年間。
生んでくれたママちゃんに感謝します。
パパちゃんにも。(^^)

まーくんが生まれた時にサークルに投稿した文章を持ってきました。
これは、まーくんを抱いた家族みんなの気持ちでしたね。
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『この腕に生まれたての赤ちゃんの柔らかな重みをしっかりと確認しました。
この世の中に愛しいものは数々有れど、無垢な命の愛しさに勝る物はないでしょう。
可愛いという言葉以外にどんな表現も今は考えられません』

写真は退院の日、病院の玄関前のスナップ。
小さなまーくんを抱いてる新米バッチャマです。
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by danri | 2006-05-16 12:18 | ★思い出語り
愛と死をみつめて
「愛と死をみつめて」が出版から40年以上経てテレビ化され、先日放映されました。
涙ボロボロで観ました。
そして、遠い遠い記憶が蘇って、懐かしさと、ほろ苦い思いが広がりました。


高校二年生の時、ある人からその本「愛と死をみつめて」をプレゼントされました。
その人は日大歯学部の学生で、制服の似合う、背が高くて顔立ちがハッキリした素敵な人でした。
出会いは友達と行った後楽園アイススケートリンク。
アルバイトのコーチと勘違いして「教えて下さい」と私が声を掛けたのが切っ掛けでした。

高校の授業が終わると、都電に乗り神保町へ。
神保町のホームでいつも彼が待っていました。
静かな優しい人でした。
古本屋街を歩き、草臥れると駿河台の喫茶店でオシャベリ。
二人の好きな「思い出のサンフランシスコ」が流れていました。
それが私達のデートコースでした。
淡い淡い幼い恋の思い出です。
でも、その恋も夏が過ぎる頃には終わりました。

当時の私は、箸が転んでも可笑しい年齢。
極普通の男友達(仲間)も多く、青春まっただ中で元気な学生生活を送っていたけれど、
家庭の中の暗い部分の悩みも抱えていて、複雑多感な17才でした。
彼が私を好きになるほどに私の気持ちは付いていけなくて、
「もっと他のいろんな人と付き合った方がいいんじゃない」
「私達は浅く広く付き合う年齢だし」
なんて、誰かの受け売りのセリフを言って離れていってしまいました。
嫌いになったわけでは無かったけど、本当の恋をするには子供だったし、
精神的ストレス発散には、彼との付き合いより気楽で楽しい仲間を選んでいった気がします。

彼と私は文通もかなりしていて、特に私が距離を置いてからは頻繁に手紙が来て、
なんで気持ちが離れていったのか分からないというその事でした。
「近くに来てるけど会えない?」って電話が来たときも、会いに行かなかった。
ほんとに彼は辛かったと思います。

彼の実家は秋田県で、歯医者さんの長男でした。、
高校卒業後上京し、一人で下宿暮らしをしながら大学に通っていた彼にとって、
私との出会いは夢のような楽しさだったと思います。
そしてその後に来た寂しい気持ちを思い遣る事が出来ない未熟な私でした。
私には彼一人じゃなくて、他にいっぱい楽しい青春の日々が有ったけど、
あの頃の彼には私だけだったと思うのです。
彼の最後の手紙に、今でも忘れられない言葉があります。
「僕は思い出の少ない人間です。だから思い出を大切にします」

今、きっと立派な歯医者さんになっているのでしょうね。
そして私と同じように、「愛と死をみつめて」が話題になったことで、自分の青春の日々を思い起こしたんじゃないかと思わずにはいられないのです。

生意気だけど可愛い17歳の少女として、
彼の大切な思い出の中に私が蘇ってくれたら嬉しいのだけれど。。。
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by danri | 2006-03-26 15:45 | ★思い出語り
出産
私は昭和48年2月12日に長女を出産した。
この日は初めて振り替え休日が施行された日だった。
前日の2月11日が建国記念日で、日曜日と重なり、
12日の月曜日も休日になったのだ。
そのお陰で、主人も家にいられたという有り難い記念日。

陣痛は前日の夕方から少しずつ始まった。
病院に連絡すると、明日の朝来ればいいということで、
こちらもなんだそんなもんかと、主人と二人で近所で外食したり買い物したりしていた。
元気だったんだなぁ~^^。というか、当時の病院は呑気だったんじゃないかな。
夜中は結構陣痛感覚が短くなってきて、痛みも強くなってきた。
それで主人に腰を押して貰って「うううっ」と唸っていた。
夜明けを待って病院に行った時はかなりキツカッタ。
でも分娩はまだ先ということで主人は帰宅した。
ラマーズなんて聞いたことも無い時代のお話。

私は入院して分娩室の近くの分娩控えのベットに寝かされた。
その部屋はカーテンで仕切られたベットが三台。私は真ん中のベット。
先人の妊婦さんが「イタイヨー!」と泣き叫けびワーワー騒いでいた。
出産って、こんなに大騒ぎでするものなのか、私にもいずれそんな激痛が来るのかとちょっと不思議なワクワク感があった。
でも、大騒ぎするのはみっともないと思っていたし、待ちに待った出産と思うと嬉しかった。
なぜなら、出産予定日は1月31日だった。
先生からは2月11日までに兆候がなかったら出産させる方法をとるといわれていたのだから、まさにぎりぎりで来た陣痛。
自然分娩を望んでいた私には、
「痛いの痛いのいらっしゃ~い」だった。
看護婦さんの「赤ちゃんも頑張ってるんだからお母さんも頑張って!」という言葉は励みになった。
その内、隣の妊婦さんは、「なに大騒ぎしてるの!。隣の人を見習いなさい!」と看護婦さんに怒られた。
そしてやがて分娩室に連れて行かれた。

私は陣痛間隔が短くなり、かなり来てると思うのだけど、分娩室へは連れて行かれず、
一人痛みに堪え低く唸ってたが、とうとう「あらら、、、生まれるかも~!!」というせっぱ詰まった感覚が来て、自然に「いきみ」がきた。
「看護婦さ~ん!いきみが来ました~!」というと、看護婦さんが飛んできて、「ダメ!息んじゃダメ!我慢して!」と大急ぎになり、分娩室に連れて行かれた。
分娩台に寝かされ、「はい!息んで!」と言われた時には、
我慢しちゃったせいか上手くいかない。
あれはやっぱりタイミングというものが有るんだと思う。
あのまま控えのベットで息み続けたら、ポンと出産出来たのかも知れないなぁ~と今思う。

分娩台に乗ってからの私は息みが上手くいかず、顔面にばかり力が入ってしまった。
看護婦さんの「はい!硬いウンコをするよーに!」という掛け声も、可笑しい。
確かに赤ちゃんを産み落とすとはそういう力の入れ方なんだけど。

一生懸命頑張ったけど、なかなか赤ちゃんは出てこない。
やがて窓からの陽ざしが眩しくてなって、
「すいません。眩しいのでカーテンして下さい」ってお願いした。
陣痛が弱くなってしまい、眠くなってしまった。
全く睡眠とってなかったからなぁ~と思う。
分娩台に乗って3時間以上経っていた。
しかし、分娩台でまどろんじゃう妊婦も珍しいかもしれない。
でもやがて、「頭が見えてきたから頑張って!」と言われ、
必死で頑張ってなんとか無事出産出来た。
あれこそ分娩台の糞力。

午後3時14分。
3410グラムの女の赤ちゃんだった。
生まれたときから眼がパッチリしていて、看護婦さんに見せて貰った瞬間、主人の顔を思い出した。
大きく生まれたのでふっくらしてとても可愛かった。
私は、赤ちゃんがお腹にいたとき臨月近くなってもなかなか下りて来なくて、子宮を軟らかくするという注射を打たれていた。
ホーリンというその注射は3回打つと母乳が出にくくなると言われていて、私は7回も打たれていた。
その影響で出産後すぐに母乳が出ない私は授乳時間に呼ばれなくて、我が子を胸に抱いたのは生後五日目だった。
今では考えられない仕打ちだ。
だから授乳室で赤ちゃんを初めて抱いた時は嬉しくて涙がこぼれた。
その時の喜びは他に例えることが出来ない。
そしてその時は、一年9ヶ月後に長男を出産する事になるなんて知る由もない私だった。
しかも、長女の時が軽いと思えるほどの、超難産!になるなんて。
その時のお話しは又の機会に、、、
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★写真は生後20日の長女。湯上がりでポ~ッとしてます。それにしても時の経つのは速いもの、、、
私の若さが眩しいなぁ~(^^)。
ちなみに26歳です♪★
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by danri | 2006-03-04 00:05 | ★思い出語り